中国書画の鑑定をめぐる研究

 

 

 

課題番号 15021222

 

文部科学省科学研究費特定領域研究

「東アジア出版文化の研究」

中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察

 

平成15・16年度研究成果報告書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成17年3月

 

 

 

 

研究代表者   内 利 

大東文化大学文学部書道学科

 

 

 

はしがき

 

本書は文部科学省科学研究費特定領域研究「東アジア出版文化の研究」平成15年度・平成16年度公募研究(研究項目C:出版環境研究)「中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察」による研究報告書である。この研究は次のような視点をもつ。

中国の書法と絵画は、芸術的視点から見れば、何よりも原作(真跡)が一等資料であることは言うまでもない。しかし、中国の書画の世界では、古代より現代まで、原作の複製品が制作され、偽物の制作も行われ、また原作、複製、偽物すべての印刷が行われ、さらには印刷されたものから複製品(二次複製品)を作成するといった出版環境を包括している。このように複雑な出版環境をめぐる諸問題を、日本・中国などの各博物館や美術館等の収蔵品と、日本・中国の出版物を中心に調査・研究することは、東アジア出版文化の研究を構築する上で、必須の視点であると信じる。

この[研究の目的]のもと、次のような[研究実施計画]を立案し遂行した。

〈平成15年度の研究実施計画〉

  中国書画の原作から、複製および贋作が生み出される基本的プロセスと方法および社会的背景を、系統的に把握し整理するため、中国、台湾および日本の各施設において調査研究を行う。その際、基礎資料として次の各書物を活用する。

中国古代書画鑑定小組編『中国古代書画図目』(24冊)1986年〜2001

徐邦達著『古書画偽訛考辨』全4冊)江蘇古籍出版社1984

『徐邦達論古書画匯集』壹:古書画鑑定概論 上海人民美術出版社2000

    楊仁ト主編『中国古今書画真偽図鑑』遼寧画報出版社1996

    楊仁ト著『中国書画鑑定学稿』遼海出版社2000

    張珩・謝稚柳・羅福頤・啓功著/今井凌雪・中村伸夫訳『書画鑑定のてびき』

   二玄社1985

    史樹青著/大野修作訳『文物鑑定家が語る中国書画の世界』二玄社2001

〈平成16年度の研究実施計画〉

  前年度に引き続き、中国書画の原作、贋作について、系統的に整理し、実態として把握することに努める。具体的な方法として、中国北京の文物出版社から発行された、

中国古代書画鑑定小組編『中国古代書画図目』(24冊)1986年〜2001

各冊巻末に掲載される「附:中国古代書画目録」から、中国古代書画鑑定小組の鑑定家が鑑定に際し疑念を抱いた(贋作などの可能性が高い)作品に付される▲印などを精査して、「中国古代書画目録備注一覧表」を作成する。

その際、『中国古代書画図目』(24冊)をもとに編集発行された、

    故宮博物院編・劉九庵主編『中国古代書画鑑別図録全1冊)1999年6月

を参照し、あわせて巻頭に掲載される劉九庵氏の「談中国古代書画鑑定」の一文を訳出する。

最終的な研究成果報告として、「中国古代書画目録備注一覧表」および「談中国古代書画鑑定」を公刊する

以上が、文部科学省科学研究費特定領域研究「東アジア出版文化の研究」課題番号15021222中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察」平成15・16年度研究成果報告書として、中国書画の鑑定をめぐる研究』を発行するに至った経緯である。

かかる研究経費ならびに研究発表は次の通りである。

[研究経費]  平成15年度   1000千円

        平成16年度   1000千円

        合    計   2000千円

[研究発表]

(1)論  文: 河内利治「書跡の変容――王献之筆《鴨頭丸帖》を中心に」

              大東文化大学編『中国における形と心』汲古書院

              平成16年3月30日発行 39頁〜80頁

(2)研究報告: 河内利治「中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察」

ニューズレター「ナオ・デ・ラ・チーナ」第8号

平成17年3月31日発行

河内利治「中国の書画伝来の一側面〜真跡から印刷へ〜

              ニューズレター「ナオ・デ・ラ・チーナ」第9号

平成17年3月31日発行

(3)口頭発表:河内利治「書跡の変容―王献之書《鴨頭丸帖》を中心に」

             大東文化大学創立80周年記念学術シンポジウム

             平成15年11月29日

河内利治「中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察」

平成16年度「東アジア出版文化の研究」第6回研究集会

平成16年6月26日

(4)特別講演:河内利治「書跡から見る中国の形と心」

第39回(平成16年度)国士舘大学漢学会大会

平成17年2月20日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目   次

 

 はしがき……………………………………………………………………………1

 

 中国の書画伝来の一側面〜真跡から印刷へ〜…………………………………4

An aspect of Chinese paintings and calligraphic works handed down from ancient times

~ on taking a view from Authentic workOriginalto Prints~

    図版(@)「墨跡本」の「印刷本」の例

図版(A)「刻本」の「印刷本」の例

図版(C)明代以降の「翻刻本」の例

図版(E)清代の「重刻本」の例

図版(F)日本大正時代の「影印本」の例

図版(G)現代中国の「拓本」の例

      研究関連キーワード(日本語・英語)

 

 中国の古代書画の鑑定(劉九庵著・河内利治訳)…………………………15

Authentication of Chinese paintings and calligraphic works on ancient times

1,六種の偽作の方法

(1)

(2)臨

(3)倣

(4)代

(5)改

(6)造

2,他の鑑定要素

(1)時代と作者の風格

(2)紙や絹の材質変化

(3)署名落款と題跋の特徴

(4)諱を避ける

(5)表装

  3,特定の研究テーマ

 

 中国古代書画目録備注一覧表…………………………………………………42

 An annotation table of Chinese paintings and calligraphic works catalogue on ancient

 times

 

 

 

中国の書画伝来の一側面 〜真跡から印刷へ〜

 

 

研究テーマ「中国書画の印刷出版環境をめぐる諸問題の文化史的考察」の研究成果の一部として、標題に掲げた点について考察した。

 その実例として、王献之の「書跡」を代表する《鴨頭丸帖》を取り上げ、検討を試みた。

王献之(344―386 or 388、字は子敬、大令と呼ばれる)は、書聖王羲之の第七子で、父羲之を「大王」、子献之を「小王」、二人合わせて「二王」と称する、書道史上の大家である。《鴨頭丸帖》は、王献之筆「書跡」を代表する傑作とされ、その「墨跡本」が上海博物館に現存する。さらに「墨跡本」とは別に、石に刻して拓本に採り、冊子に仕立てた法帖(集帖)による「刻本」も伝来する。明朝末期に呉廷によって模勒された《餘C齋法帖》は、その代表である。この「墨跡本」と「刻本(《餘C齋法帖》)」の両者は非常に似通っており、一見すると同じよう見えるが、仔細に比較すると字形に差異がある。その差異は何故に生じたのであろうか。この点については、すでに拙文「書跡の変容―王献之筆《鴨頭丸帖》を中心に」(大東文化大学編『中国における形と心』汲古書院2004年3月30日発行)に論述した。そこで本稿では、この論述をもとに、真跡から墨跡本・搨模本・臨写本・刻本・影印本・印刷本が生れた流れを中心にまとめることにする。

書法(書道)を研究することを「書学」と呼ぶが、「書跡」はその研究の基礎資料であり、形状・材質・内容などの確認によって時代が判明し、執筆年代や筆者を特定する可能性が生れてくる。それがさらに発展して、歴史的価値や芸術的価値が付加されることになる。それゆえ「書跡」が何より大切な研究対象であるが、最大の問題は、この《鴨頭丸帖》「墨跡本」をめぐって古来より諸説があり、必ずしも王献之の「書跡(墨跡)」ではない点である。

a、王羲之の書で唐代の模書(大王唐搨模本)

b、王献之の書で唐代の模書(小王唐搨模本)

c、宋代の米芾あたりの臨写本(宋臨本)

d、《餘C齋法帖》に基づく臨模本(偽作本)

このように筆者、時代、方法、真偽ともに異なった捉え方がなされているが、模写したか臨写したかの説は分かれるものの、王献之自身が書いたものではないという見方は共通している。さらに言えば、王献之の「書跡」とされるものに、

@《廿九日帖》(遼寧省博物館蔵《万歳通天進帖》中の一、初唐搨模本)

A《鴨頭丸帖》(上海博物館蔵)

B《東山帖》(北京故宮博物院蔵)

C《中秋帖》(同前)

D《送梨帖》(香港蔵)

E《鵞群帖》(所在不明)

F《地黄湯帖》(日本台東区立書道博物館蔵)

の七種があるが、いずれも王献之自身が書いたものではない。ついでに言えば、王羲之の「書跡」も一つとして王羲之自身が書いた「真跡」は伝来していない。

現在中国では、上記c説が有力で、王献之が書いた「墨跡」でも、唐代の「搨模本」でもないと定義されている(国家文物鑑定委員会常務委員・故宮博物院研究員の徐邦達氏の説に基づく)。

そもそも《鴨頭丸帖》は一通の尺牘(手紙)であり、その内容は王献之の個人的な思い、私的な願いを表出したものである。字数は僅か二行、十五字のものである。

 

鴨頭丸、故不佳。明當必集。當与君相見。

「鴨頭丸」(利尿と消腫に効く丸薬)は、まことに良くありません。明日必ず集まりましょう。きっとあなたとお逢いできるでしょう。

 

僅か十五字でも「原作(真跡)」が無いとなると、より「原作」に近いのは「搨模本」になるが、現在上海博物館に伝来する「墨跡本」が、「搨模本」ではなく「臨写本」であるとすると、原形(真形)から一段遠ざかる姿であると言わざるを得まい。

一方、《鴨頭丸帖》として伝来する「刻本」が数種類ある。北宋初期に太宗の勅命で《淳化閣帖》に原刻(992年)されたのが最初である(但しこの法帖自体にも問題があるとされる)。その後、《大観帖》(1109年)、《絳帖》(刻年不明)、《二王帖》(1206年)などに「翻刻」された。ついで明代の弘治二年(1489年)に《宝賢堂集古法帖》、萬暦年間に陳元瑞の《玉煙堂帖》に刻入され、萬暦四十二年(1613年)には呉廷が《餘C齋法帖》続編に刻し入れた。清代には楊守敬(1813−1915)が《鄰蘇園帖》に刻しており、また江標も長沙の学政官署において模刻したとされる。

これらの「刻本」は、石に刻してから拓本に採り、持ち運びや学書の対象として至便であるように、折帖(剪装本)に仕立てられたものであるが、「原刻本」からの「翻刻本」のみならず、「影印本」が日本でも製造されるようになり、さらに印刷技術の向上によって精巧な「印刷本」が、現代中国や日本において廉価で購入できるようになった。昔なら、一部の特権階級の人士のみが過眼し得た珍奇な「書跡」が、今日では簡単に見られるようになったのである。

書画の世界では、「真跡」は一点しか書き残さない、と考えるのが通例である。たとえば、上記の王献之の「書跡」@からFはすべて尺牘であり、同一の手紙を複数通書き残したとは考えられないからである。だからこそ、その書跡は珍奇であり、貴重なのである。

一点しか現存しない「真跡」を、永久に手元において置くためや、学書の対象とするためには、どうしても「搨模本」や「臨写本」といった「副本」を作成しなければならなかった。それゆえ唐代では「搨模」が行われ、専門の「搨書人」を宮中に抱えたのである。宋代以降は、書画の文化が市民に浸透し、大衆化が進む中で、多くの収蔵家が登場し、「刻本」や「翻刻本」が数多く出現した。この文化現象も、一点しか現存しない「真跡」を誰もが共有するための手段にほかならない。そして清末以降、「影印本」や「印刷本」が流布するようになるが、これもより多くの一般の書画愛好者に供するためだったのである。

このように考えると、書画の真跡の伝来は、「搨模本」や「臨写本」といった「墨跡本」による複数の「副本」を作成する目的から出発して、「刻本」へ、さらに「影印本」・「印刷本」へと大衆化の流れをたどってきたと言えよう。言いかえれば、中国の印刷出版環境全体を象徴する変遷になろう。

最後に、稿者が参考にした「書跡」《鴨頭丸帖》を時代順に列挙しておきたい。

 

(@)二玄社『中国法書選18 王献之尺牘集』所收「墨跡本」《鴨頭丸帖》印刷本

(書写年不明)

(A)同書所收《餘C齋法帖》「刻本」《鴨頭丸帖》印刷本(1613年刻)

(B)《淳化閣帖》材官本「刻本」《鴨頭丸帖》(刻年不明・明代以降の翻刻)

(C)個人蔵《二王帖》「刻本」《鴨頭丸帖》

(刻年不明・宋代《二王帖》の明代以降の翻刻)

(D)大東文化大学蔵《淳化閣帖》「刻本」《鴨頭丸帖》(刻年不明)

(E)個人蔵《欽定重刻淳化閣帖》「刻本」《鴨頭丸帖》(刻年不明・清代刻本)

(F)天来書院蔵《餘C齋法帖》「影印本」《鴨頭丸帖》192410月影印出版

(G)安徽省博物館蔵原石《餘C齋法帖》現代「拓本」《鴨頭丸帖》(採拓年不明)

(H)湖北美術出版社『中国法書全集13』《餘C齋法帖・續帖(選)》

20023月印刷発行

(I)北京古籍出版社《餘C齋法帖全三冊一帙》「印刷本」《鴨頭丸帖》

2003年1月印刷発行

(次ページ以降に掲載の図版番号は、上記の番号による。)

 

この(@)から(I)の十種のうち、(B)(D)は掲載不便のため省略した。また(H)は《餘C齋法帖》を選択して収録するため、《鴨頭丸帖》は未収である。よって省略した。

以下の図版によって「書跡」を実際に見るだけで、全体の風貌の変容や字形の変化を感じ取っていただけよう。

 

なお本稿は、「東アジア出版文化の研究」研究成果報告書の「ナオ・デ・ラ・チーナ」第9号(平成17年3月31日発行)所收中国の書画伝来の一側面〜真跡から印刷へ〜」を転載したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(@)「墨跡本」の「印刷本」の例

(A)「刻本」の「印刷本」の例

 

(C)明代以降の「翻刻本」の例

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(E)清代の「重刻本」の例

 

 

 

 

(F)日本大正時代の「影印本」の例

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(G)現代中国の「拓本」の例

 

 

 

(I)現代中国の「印刷本」の例

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<研究関連キーワード>

 

(日本語)

1 書跡                   2 真跡(原作)           3  王献之               

   

4 鴨頭丸帖               5 墨跡本                 6  搨模本              

   

7 臨写本                 8 拓本                   9  法帖               

 

10.刻本                  11 餘C齋法帖             12 淳化閣帖           

 

13.翻刻                14 副本                   15 印刷本            

 

16影印本                

 

 

(英語)

1 Handwriting work     2 Authentic workOriginal  3 Wang-Xianzhi   

   

4 Yatouwan-tie          5 Ink marks              6  Copy              

   

7 Transcript            8 A book of rubbings   

 

9  A book of models of calligraphy for copying         10 Block-printed edition

 

11 Yuqingzhai-fatie      12 Chunhua-getie        13Block-reprinted edition

 

14 Duplicate copies      15 Prints               16Photo-offset copy     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国の古代書画の鑑定           劉九庵著(河内利治訳)

 

 

 古代書画の偽作は、その源流をさかのぼると、古代の伝播手段や保存条件の未発達からその糸口を見出すことができる。歴代の著名な書画作品には、臨本が多数伝来するが、始まりはより多くの人に鑑賞させ、手に入れさせるためか、それとも年代が古いので、その状態を保存するためのものにすぎない。

たとえば唐代の王羲之作品の本は、その当時、写真や製版技術がないため、見ようと思っても見ることができず、することによってのみ数本の副本を手に入れたのである。このような臨本があると、いずれが原本で、いずれが臨本か、という鑑別の問題が生じる。

書画の名家と名作は、愛好したり、探し求めたりする人がいるので、価値が生まれる。これにともない、さらに「代筆」、「改」、「造」などの現象が起ってくる。無名の者が名人の代筆をしたり〔師弟や父子の相伝を含む〕(注1)、やや有名な者が著名人に書き改められたり、さらには機械的に当てはめて造ったりと、名実伴う偽作ができあがる。それゆえ、書画の鑑別の歴史は、偽作の歴史と呼応して発展してきたのである。

 書画の鑑定は、他の文物の鑑定と同様で、その基本の方法は、比較し分析を行うものであり、現代科学の検査と測定、たとえば紙や絹の時代についての検査と測定などは、補助的な手段にすぎない。

比較し分析を行う方法とは、異なる時代、異なる作者の大量の作品に対して、三つ以上並べて比較し(注2)、分析し、総合することである。この経験を豊富に積んで、その異なる風格や特徴を理解し、各時代、各書画家の「基準作例」(注3)を理解し、そうして鑑定を求める書画作品の善し悪しや真偽を対比し、鑑別するのである。このことは、「実践中の思考、比較中の鑑別」という二句に概括することができる。

書画の真偽の弁別は、言い難いものは難しく、言い易いものは易しいのであり、大切なのは肝心な点をしっかりとつかむことである。私本人の数十年の学習と研究の経験から言えば、書画の鑑定に注意すべき点が三つある。

 @ 歴代の偽作の方法を掌中に修めること。

 A 大量に伝来の作品を閲覧し、推測し、豊富な経験を蓄積し、鑑定の要素を掌握すること。

 B 書画鑑定の特定のテーマを研究して、ある点を突破して一部を解決し、そのようにして書画鑑定の水準を深化させ、向上させて、先人の未提出または未解決の問題を解決すること。

 

1,六種の偽作の方法

 

 昔から書画を偽作する方法はいろいろあり、その源流をさかのぼると基本的に六種類――、臨、倣、代、改、造――に帰納できる。この六種類の方法は、主として早期の方法であり、現代の博物館の複製を含んでおらず、それとは概念がやや異なる。

 

(1)

 

 「」は、原作や真跡に対する模写であり、「影拓」、「移画」、「響拓」ともいう。

宋の趙希鵠の『洞天清祿集』に次のような記載がある。

 

紙を碑の上に置いて窓に貼り付け、游糸筆を用いて明るい部分の字画を囲み、濃墨で埋める、これを響拓という。

――以紙加碑上貼於窓戸間、以游糸筆就明処圏却字画、填以濃墨、謂之響拓。

 

東晋の大画家顧ト之の「論画」に「模〔に同じ〕写の要法」という一則があり、かなり画の方法の要点を押さえて、「白紙を用いて白紙に模写する。その白紙が良くないものは用いてはいけない。しばらくして良い状態に戻っても、様子が変わってしまう。(以素素、其素絲邪者不可用、久仍還正、則容儀失。)」と論じている。南朝斉の謝赫は『古画品録』に絵画の「六法論」を提起した。その一つにも「伝移模写」があり、臨について一歩進んだ総括をした。書画をすというのは、書画の原作の上に白紙または絹を覆い、紙や絹の透明度を利用し、光の明るさを借りてもとどおりに写し取ることである。あるいは輪郭を籠字にとってから墨を填める方法で「双鉤填墨」と呼ぶ。この方法は書法の写に多用される。模の最初の目的は、古代芸術の精華の作品を学習し保存することであり、偽作とは無関係である。

 古代名画の最古の模写は、文献の記載と現存の実物から見ると、顧ト之のものであろう。米の『画史』の記載によると、彼は晋代の最初の画である顧ト之の《維摩天女飛仙図》を収蔵していた。また彼は当時、穎州政府の保管所で、唐代の詩人杜牧が模写した顧ト之《維摩百補図》を見て、杜模本を「光彩人を照らす」と称賛したという。残念ながらこの模本はすでに散逸してしまい、記載として残っているだけである。

 

 

 北宋 李公麟《唐韋偃放牧図》部分

 

北宋李公麟の《模唐韋偃放牧図》は、図の上方に篆書で「臣李公麟奉敕唐韋偃放牧図」と款識がある。李公麟は臨模に最も長じ、

 

古今の名画を手に入れれば、必ず模写して副本を備えたので、家には名画を多く所蔵し、所有しないものはなかった。

――凡古今名画、得之必臨、畜其副本、故其家多得名画、無所不有。(注4)

と言われる。『宣和画譜』には彼の作品が107件、唐人作を模写した作品を9件著録するが、残念ながら1件も伝来していない。しかし『宣和画譜』に未収録のこの大作は、北京故宮博物院に現存している。

 書法の写は絵画よりも更に早いようである。北宋の黄伯思『東観余論』法帖刊誤には、次のような指摘がある。

 

  《尚書宣示》(即ち宣示表)は、鍾繇が書いた真跡本であり、丞相王導の家にあった。  王導が長江を渡る時、衣服の中にしまって南遷し、その後王羲之に贈った。王羲之はさらに王脩に贈った。王脩が死ぬと、その母は王脩が平生宝物としていたものを一緒に納棺したため、この世から真跡が消えてしまった。この本は王羲之が臨書したものである。

  ――尚書宣示、鍾〔繇〕書真跡本、在王丞相導家。導過江時、蔵衣帯中以遺逸少〔王羲之〕。逸少以遺王脩。脩死、其母以脩平日所宝、并入棺、真跡遂絶。此本右軍所臨者。(注5)

 

この法帖は《淳化閣帖》のなかに刻入され、魏の鍾繇の書と決められているが、黄伯思は王羲之の臨本であると鑑定している。

 唐の太宗李世民は王羲之の《蘭亭叙》を入手したのち、当時の供奉で搨書人である馮承素、韓道政、趙模、諸葛貞ら四人に命じて、それぞれ数本を模写させた。今日伝来する数件の本のうち、馮承素が細い筆で籠字をとった本が原作、底本に忠実であると伝えられている。

 

唐 馮承素《蘭亭叙》部分

点画のなかに作られた「破鋒」や「断筆」など、すべてを詳細に一つ一つ描出してある。そのなかの「毎」字は、先ずかなりの濃墨で「一」を書き上げてから、その後に淡墨で「毎」字に仕上げている。搨の精密さと双鉤の巧妙さは、他の模本に比べようが無いほど素晴らしい。南宋の岳珂の『宝真斎法書賛』は、馮承素らの《蘭亭叙帖》を記載し(注6)、「貞観五年八月廿九日、臣承素奉勅模」と款識を署し、帖中の「長」、「懐」、「蹔」などの字の双鉤の筆法について詳細に記述している。岳氏は「もとよりおよそ真跡を自分の目で見るかぎり、臨模した搨書人は、図らずも一致している(故凡親見真跡、其臨模之手、不約而同)」とみなしている。

 唐人がした王氏一門の法帖は、《万歳通天帖》とも呼ばれ、その中には王羲之の《姨母帖》、《初月帖》、王献之の《廿九日帖》などがある。岳珂は次のように跋を書いている。

 

  『唐史』に拠れば、則天武后がかつて王方慶の家で王羲之の筆跡を探した時、王方慶が十巻を献上した。全部で二十八人、ただ王羲之や王献之はこの帖に見るだけである。則天武后は、すべてすよう命じ、本を宮中に留め、原本の真跡は王氏に返還した。

  ――案『唐史』、則天后嘗訪右軍筆跡于王方慶家、方慶進者十巻、凡廿八人、惟羲、献見于此帖。則天命将尽搨、〔〕本留内、原本帰還王氏。(注7)

 

この帖の鉤の精巧さを、岳氏は「姿態が多くの妙味を具備し、模写は天真に逼るほどで、他の帖がまねられるものではない(態備衆妙、逼天真、亦非他帖可擬)」と称えている。この帖は現在、遼寧省博物館に収蔵されている。

 法書の本は、時には一件の作品から多くの本が生まれ、「母本」と「再本」に分かれる。「母本」の特徴は、先に双鉤し、後に填墨することである。その鉤筆、直筆、填筆は自然で美しく綻びなくし、少しも原本に劣らない。「再本」の特徴は、「母本」からすため、形は似ているが趣きを失っていることである。制の方法について、唐代の賞鑑家の張彦遠は、『歴代名画記』の「論画体工用搨写」で詳細に述べている。

 

  古画が好きでたまらない人は、宣紙(安徽省宣城県の特産紙)を百枚用意して、方式に従って蝋引きし、原画の模写に備えておくのがよい。昔のすぐれた模写は、十中八九まで原画の趣きや筆使いを得ている。また御府には搨本があり、これを「官搨」と呼んでいる。わが唐朝でも、内庫、翰林林、集賢殿、秘書閣が絶えず模写の作業を続け、太平の時期には、この技能が盛んであったが、朱の乱によって徳宗が地方へ流出してからは、模写の事業は次第に廃れてしまった。だから今となっては、めったにないすぐれた原画により、それを模写しえたものがあったならば、その模写は珍重して然るべきである。珍重すれば原画をしのぶことができるばかりか、かかる作品が存在したことの証拠とすることができるのである。

  ――好事家宜置宣紙百幅、用法蝋之、以備写。古時好搨画、十得七八、不失神采筆蹤。亦有御府搨本、謂之官搨、国朝内庫、翰林、集賢、秘閣、搨写不輟。承平之時、此道甚行、艱難之後、斯事漸廃。故有非常好本、搨得之者、所宜宝之、既可希其真蹤、又得留為証験。(注8)

 宋代の太宗〔趙光義〕と徽宗〔趙佶〕は、御府に収蔵する法書の真跡を出して、宮中で拓し版木に刻し、《淳化閣帖》や《大観太清楼帖》などをこしらえた。これは大規模な搨の製版である。

 以上の臨の作品は、模本の上に模書した者の姓名や故事を書いたり、模書後に原本を収蔵者に返還したりと、ともに副本を遺し鑑賞するためのものであった。しかし、さらにいくつかの臨模の作品には、「暗」や「偸」と呼ばれる、偽物を作って利益を手に入れるたぐいのものが含まれる。東晋の書家の張翼は、王羲之の書体を模倣するのが得意であったという。南朝梁の虞龢の『論書表』に次のようにある。張翼は、字形と趣きを兼ね備えるレベルにまで達していたようである。

 

  王羲之はかつて自ら上表文を書いて穆帝に奉った。帝は張翼にそれを模写させたところ、寸毫も違わないほどであった。帝は(模写させた上表文の)後に勅批を書いて答えられた。羲之は初め気がつかなかったが、さらによく見てから嘆息して、「こいつめ、真を乱さんばかりだ」と。

  ――(王)羲之常自書表与穆帝。帝使張翼効写、一毫不異。題後答之。羲之初不覚。更詳看、乃歎曰、「小人幾欲乱真。」(注9)

 

 また南朝斉の王僧虔は次のように言っている。

 

  康マは右軍(王羲之)の草書を学び、本物と見違えるほどであった。南州の恵式道人   (一説に識道人)とともに羲之の書貨(売るための偽物の書)を作った。

  ――康マ学右軍草、亦欲乱真。与南州恵式道人作右軍書貨。(注10

 

この一文から、王羲之が生きていた時、すでに人は彼の筆跡を模写して金儲けをしていたことが分かる。

 本の書画が、字形も趣きもそっくりで、精神も心も充足するには、高度な芸術的修養と精緻な技法が必要であり、原作の筆と墨の使い方などの特徴を深く会得する必要がある。詳細に観察することは、「観察するには精神を重んじ、模倣にはそっくりに似ることを重んじる(察之貴精、擬之貴似)」と呼ばれている。しかしながら、このレベルに到達するのは本当に容易ではない。模倣する者ができるだけ正確に一筆一筆を運び、一筆もおろそかにしないというような機械的な模写は、原作の制限を受けることから逃げられないし、流暢に筆を運び、自然に墨を用いることはできない。それゆえ本の書画は、往々にして筆墨が滑らかでなく、溌剌とした生気に乏しいものである。模本の書画が原作の形を真似できても、その神韻(風趣)を失うという限界性を引き起こすのである。型どおりで、滑らかではない筆は覆い隠すことができないのが、本の欠点であり、真跡と本を選別する重要な根拠である。

 

(2)臨

 

 「臨」は、原作の状態を熟知した基礎の上で、作品を臨写することである。一般に対臨、背臨、臨などの方法がある。

 「対臨」は、原作を対照し、見ながら臨書することをいう。典型的な例に、東晋の王献之の《中秋帖》巻がある。多くの考証に拠れば、実際は北宋の米芾が臨書したものであり、王献之の《十二月帖》を節臨してある。書法は自然で流暢で、筆法は豊かで力強く、米芾の書法の特徴が多く見える。

 「背臨」の作品は、臨書者が対象を臨書の記憶によって、書画家の風格に基づいて臨書するものをいう。背臨の作品は、原作の形を失いかねないが、対臨の作品に比べて、筆墨が自然で生き生きしており、作品によっては臨書者本人の個人的風格と時代的風格とが融合する場合がある。たとえば明の沈周の《臨富春山居図》巻は、元の黄公望の作品を背臨している。当然ながら偽作ではないし、画家の芸術の再創作である。

明 沈周《臨黄公望富春山居図》部分  

もう一つある情況は、臨画者が原作の形を失うことを避けるために、先に原作の物象の輪郭をしておき、それから作品の内容と細部を臨書するものである。それゆえ臨は往々にして模と密接に関連しており、「臨」と称されるのである。臨の作品は、対臨や背臨の作品に比較するまでもなく、形から精神まで全ていっそう原作に近く、本物そっくりであり、鑑別の難しさを増すものである。明人が臨した董其昌の《夜村図》冊頁は、その真跡と比較すると、形象が全くそっくりであるが、樹石の皴法を全て模すことは不可能なので、対臨を加えている。これによって真跡の筆法と区別するのである。

 

  むかしの人は帖を臨書するとき、ただその意だけを師匠とし、型どおりにこだわり続けることはなかった。唐宋以後、王羲之の《蘭亭叙》を臨書しなかった書家は一人もいないが、どれひとつも似ていない。

  ――古人臨帖、但師其意、未嘗刻舟求剣也。右軍蘭亭、自唐宋以来書家無不臨之、各不相似。(注11

 

 臨書が一番盛んだったのは宋代であり、晋唐人の法書を多く臨書したが、蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡襄の四大家の作品も臨書し、傑出した多くの書画家は、その多くが臨書に上手であった。たとえば米芾は、古帖を臨書することが上手で、その水準は極めて高く、ほとんど本物そっくりである。米芾の字は、古人の字を集めたものであり、若い頃に晋唐の墨跡をあまねく臨書し、晩年には晋唐の殿堂に奥深く入り込んだ。先人の作品を臨書したとき、その多くは自分の名前を落款に書き入れなかったので、当時の人は先人の真跡であると称賛した。臨書したのは二王の作品が最も多く、最も似ている。二王と称される現存作品のなかには、米芾が臨書した作品がある。臨書が非常に上手く、形も趣きも似ているので、後世ずっと王の真跡であると呼んできた。

  米芾の臨書した作品が二王の真跡であると見なされたことを、その当時、米芾自身すでに知っており、記載に留めている。親友の王晋卿は、米芾が臨書した王献之の字を、先人が王献之の作品と題した題跋の前に移し、そのうえ当時の人にお願いして、この米芾臨書を王献之作品の真跡と見なす題跋を書いてもらった。このように先人の題記があり、かつ当時の人の跋語があると、ただ題跋から見ただけでは、真跡であると誤解する。この作品がもし今日まで伝来していれば、われわれは題跋を信用して、王献之の原作であると決定するであろうが、実際は米芾の臨書なのである。それゆえ、書画を鑑定する上で、何を重要とするかの問題がある。また題跋は補助的参考にとどめるだけで、作品本体の真偽こそが重要なのである。

 どの名家にもみなその人自身の特徴があり、作品を鑑定する時にはそれらの特徴に注意し掌握しなければならない。米芾は『書史』、『画史』を著して、先人の書法と絵画の名家の作品について記述した。それらは今日の書画鑑定にとって不可欠の参考書である。

 

(3)倣

 

 「倣」(模倣)には、二つの状態がある。一つは、ある書画家の書画の風格と技巧を学び、自己の芸術風格を形成する助けとするもので、目的は自己の芸術水準を高めることにある。このような習作は、時には偽作者に利用されることがある。もう一つは、偽作者が偽作するための手段である。「倣」には三つの段階があり、時代によって異なりそれぞれ特色がある。

 文献の記載によると、最初の「倣」は、唐人の李懐琳が先人の書法作品を模倣して、他人の落款を入れたもの、あるいは唐人とか唐以前の名人の落款を入れたものである。しかし、たとえ李懐琳の模倣作品が誰の名を入れようと、その字体は全くの彼個人の姿であり、誰かの字を模倣してその人の字に似ているというものではない。偶然少し似ているとしても、いくらか味わいがあるにすぎず、実際は他人の名前を借りて自分の字を書いただけである。このことは『書林藻鑑』に、李懐琳が「他人の姓名を借りて、自分の字形を書いた(假他人之姓名、作自己之形状)」(注12と記載されるとおりである。これは最も早い模倣品の特徴である。

 宋元時代、名人の書画作品の真跡の収蔵に富んだ大賞鑑家は、ある人の筆意や書法の特徴を模倣していくつかの作品を創作した。それらの作品は原作に必ずしも似ていないが、その書法や筆法は確かに原作者の特徴をとらえている。こういった作品は、一般には模倣された者の名前を落款にして、模倣者の名を書き入れない。この種の模倣作品は、実際は先人に学んで、伝統の作法を学ぶものである。たとえば南宋の高宗(趙構)は多くの人の作品を模倣しており、現存する遺品は少ないが、その模倣作品であると確定できる。北京故宮博物院に現存する《趙構倣李邕〔李北海〕》一巻の法書作品は、書の後に李邕の落款があるが、趙構の模倣品であると認定している。

 明代中期以降、作品中に誰々を模倣すると題することが増え始め、ある大家や名家を模倣したと必ず書くまでに発展した。それは一般にはすべて自己の名を書き入れている。そのなかにも異なる状態がある。たとえば沈周〔沈石田〕の作品は常に董(源)、巨(然)などを模倣したような字形を題している。彼は確かに董や巨などの作品を収蔵しており、いつも鑑賞して、その画法や筆意を模倣することができた。しかしそれほど有名ではない、または無名の作者は、作品中に常に誰々を模倣したと書くが、実際にはそれら大家の原作や真跡を見ておらず、ただ単にこのやり方で、自分が見た真跡が多く、収蔵に富むことを証明し、これによって自分の名声や身分を高め、より高い経済的価値を勝ち取ろうと求めたにすぎない。これらの人の模倣品は、似ていないばかりか、分かっていないし、とっくに「倣」の意味を失ってしまっている。これらの作品は時代がやや下り、比較的容易に鑑別できる。

 苦心して偽作する者から言えば、偽作者は必ず書画の一定の水準をもっており、模倣される者に対する一定レベルの研究を行うことが要求される。いわゆる己を知って彼を知ることであり、そうしてはじめて本物そっくりにでき、模倣品の筆墨はさらに随意な自然さが加わり、型どおりで融通が利かない気味が少しもないようになる。しかしそのようであるとしても、模倣者が字を書き画を描く過程のなかで、往々にして本人のいくつかの筆墨の習慣を作品中に残すことから避けられないし、加えて後人が古人の作品を模倣する以上、必ず時代的風格の差異があるもので、このことが鑑定の根拠を提供してくれるのである。たとえば・僖は元の呉鎮の墨竹を模倣して、落款に多く「梅道人」と書き入れるが、呉鎮の真跡は「梅華道人」と書いている。また譚雲龍は鄭燮の画石を模倣して、苔を点ずるが、鄭燮の画石は自ら苔を点ぜずと言っている。このことは鑑定者が、模倣する者と模倣される書画家との芸術風格について、充分に理解し研究することを要求しており、この基礎の上で模倣作か真跡かを識別し、そうしてはじめて偽を去って真を残すことができるのである。

 

(4)代

 

 「代筆」は、簡単に言えば、他人にお願いして自分の書写や絵画の代わりをつとめて、自分の名を落款に書く、もしくは自分の印章をツ印してもらことである。

 代筆には二種類ある。一つは、部分的に代わるだけで、あたかも合作のようであり、書画家本人が一部を作製し、落款は書画家本人のものである。もう一つは、作品全てを代筆人が作製し、落款だけ書画家が書写するものである。

 代筆は、代筆される者と代筆する者の関係が師弟や親子である。たとえば蘇軾と米芾の親子、金農と羅聘がそうである。代筆する原因は、一般には本人の名声が高く、名を慕って作品を求める者が多く、本人の得意でない題材や内容の書画の場合に、代書や代画を他人にお願いする場合、高齢のためや健康状態から書画を作製しづらい場合、または報酬に応じるために作製する場合がある。代筆は古代の書画作品に見える現象で、厳格に言えば、これと偽作の書画の創作動機や目的とは、本質的な区別がある。しかし代筆の書画は結局のところ作者直筆の署名を書き入れないので、それらを真跡の中から見分ける必要がある。同時に、代筆作品と真跡とを区別して扱うことは、作者の生涯の事跡、創作活動や芸術交流を理解するうえで有利であるだけでなく、代筆者の書画芸術の継承の脈絡と風格を研究することに有利である。

 書画代筆について、文献には古くに記載がある。たとえば『歴代名画記』巻九「呉道子伝」に、次のようにある。

 

呉道玄はいつでも画を描く場合、画筆をおくとすぐさま立ち去り、あとは弟子の翟琰と張蔵とに彩色させたが、濃淡は例外なくきわめて適切であった。

――呉生毎画、落筆便去、多使琰与張蔵布色、濃淡無不得其所。(注13

 

これは呉道子の作画の様子を記しており、人に代筆と彩色を頼んでいる。そしてまた呉道子の作品には「半真半偽」の情況があることを伝えている。

 清の呉修『青霞館論画絶句』には、はっきりと董其昌に代筆の作品があることを記述する。

 

  むかし陳眉公(継儒)が沈士充(子居)老兄に送った手紙に、「白紙を一枚送ります。制作代金は銀三枚です。大堂に掛ける山水画をご面倒でしょうが、明日までに仕上げて下さい。落款は不要です。董其昌(思老)の名前を入れようと思いますので」と書いてあったのを見た。

――曽見陳眉公書札与子居老兄、「送去白紙一幅、潤筆銀三星、煩画山水大堂、明日即要、不必落款、要董思老出名也。」(注14    明 董其昌《倚松閣図》沈士充代筆

 

代筆が最も多いのは明人の董其昌であろう。董其昌は舟、橋、人物、建築物の題材の作品は不得手であり、いつも代筆の作画を頼んでいた。啓功先生「董其昌代筆人考」(注15では、七人の代筆者を発見している。その中でも代筆が最多で董其昌の認可を得、かつ実物の証拠が現存するのは、沈士充〔子居〕である。董其昌の代筆の画があってはじめて、董其昌は直筆で落款を入れた。その他の代筆では、董其昌が落款を入れることが少ない。

董はかつて「楷書で落款に書き入れたものこそ、真筆である(題楷書款的〔小楷書〕、才是親筆)」と自ら言っている。董其昌は楷書の修錬が深く、顔真卿風の書体で多く書いている。おおよそ楷書で「其昌」の落款がある作品は、董其昌が最も満足した作品である。現存する六、七件の楷書での落款の作品が、董其昌の傑作に数えられる。董其昌の作品は落款に特徴があり、一般には書に「玄宰」と落款を書くことはなく、画に「其昌」と書くことはない。しかし蘇州で所蔵される一幅の書は、「玄宰」と落款があり、確かに董其昌の真跡である。それゆえ真偽を鑑別する条件に絶対的なものはない。

 金農は「揚州八怪」の一人で、作品の代筆がかなり多い。文献の記載によれば、金農は50歳から画を描き始めたとあるが、実際に彼が50歳の時の画は他人の代筆作であり、後人は誤って真筆と見なしたのである。当時、画家の羅聘は金農について詩を学び、金農の弟子であった。この時の金農の画作は、多くが羅聘などの代筆である。同時代に篆玉と呼ばれた人がおり、金農の画を受け取ったが、疑問を抱いた。羅聘らが作画する場面を見てから後は、突然に悟った。そこで画面上に次の七言絶句を書きつけた。

  師借門生画得銭  先生は弟子の画のお陰で金儲け。

  門生名亦頼師伝  弟子の名声はまた師匠頼み。

  両相互換成知己  お互いに名と金を交換して親友となる。

  被爾相瞞已十年  おまえに騙されてはや十年。

 この詩から、当時すでに代筆を見破られていたことが分かる。

このほかに、「代筆」には属さないが、「代筆」と関連する現象がある。一部分が「御筆」「御書」「御画」と慣習的に呼ばれるものである。たとえば一部分が徽宗(趙佶)と見なされる作品は、その多くが御書院の人の制作であり、後人は誤って宋徽宗(趙佶)と見なした。それらの作品には徽宗本人の落款がなく、風格も異なるところがあり、命名を間違えたもので、代筆ではない。宋代の画院の作品には落款が少なく、そのような作品が少なからずある。徽宗と署名する伝来の作品は、実際は多くが御書院の人が書いた徽宗体であり、後人は徽宗が書いたと多くが誤った。たとえば《聴琴図》は、我々はすでに徽宗の直筆ではないと知っているが、画面上のいくつかの文字は徽宗が書いたものである。当時の画院にはとても多くの画家がおり、そのなかで非常に善く描けたものに、徽宗は数文字の題字を書いた。後人は徽宗の題字や、花押のサインがあるのを見て、徽宗であると考えたのである。伝来に長い時間がかかっているため、現在でも習慣上、徽宗の作と呼んでいる。実際に本当に徽宗が書いた伝来する書画も数件あり、それらはみな「御制」「御書」「御画」と題してあり、それらの作品があるからこそ、正真正銘の徽宗の作品である。

                           宋徽宗(趙佶)《聴琴図》 

(5)改

 

 「改」は、作品の一部、時には全体の状態を変えたものをいう。もし「模」、「臨」、「倣」などの方法が部分的に学習や参考の要素を含んでいるならば、「改」と「造」は全くの人を騙す偽作である。改は、一般には真跡の書画の上で手を加え、それを別の一幅に作り変えるものをいう。偽物の書画に作り変えるなかでよく見られ、また複雑であり、その作り変える方法と手段は繁多である。たとえば「挖(抉り取る)」、「割(切り取る)」、「擦(こすり取る)」、「洗(洗いさる)」、「刮(削り落とす)」、「添(つけ加える)」、「補(補修する)」などがあり、時にはいくつかの方法を同時に併用する。いろんな手段を用いて、不人気のあるいはそれほど有名ではない作家の書画を、古代の名家や同時代の大家の作品に作り変えるもの、無款の書画に、前時代や同時代の大家の名のある落款を追加するもの、画自体は真跡で、その作品に偽の名人の題跋を添加して、真跡を二つに分け、偽作と寄せ集めて分別し、二幅もしくは多数の真偽半々に交じり合った作品に作り変えるものから、ばっさりとばらしてしまって、一つを二つに分けるものがある。ほぼ宋代から現在まで、改の時間は延々と続いており、名実伴う偽作の一つである。

 落款の字を変えて付け足す「添款」は、宋代頃から始まる。米芾の『画史』に「今の人は偽物を好んで本物を好まない(現人好偽不好真)」という言葉があり、宋代の絵画の気風がそうさせたことが分かる。多くの画著名な画家の技法や筆墨は、今日から見ると追究しづらいものである。宋代は芸術が発展した時代であり、名画や骨董を収蔵する者が非常に多く、そこで名家の書画を数枚に裁断して、高利を得る者がいた。たとえ名声があまり高くない画家でも、名家の題款を加えて、自身の絵画の価値を高めた。このような「添款」の現象は、宋代ではきわめて普遍的であった。

 その後、「添款」が行われて先人の作品を偽物にする事が多く見られる。かつて行草作品で、鮮于枢の署名の《酔時歌》冊を見たことがある。これは鮮于枢の原作でなく、元末明初の人の書写で、偽作者はもとの書人の落款を裁断して取り去り、その中の七絶一首の末尾の空いている場所に「枢」字を付け加えて、鮮于枢の作品へと偽作したのである。

 明代の多数の画家の落款の構成は、元代と似ており、かつより簡単へと向っている。多くの画家が落款を入れず、字を題せず、ただ一顆の印章を押すだけのものや、字を題しても名を書かないものがあり、それゆえ一般に原作に「添款」を行う現象は、明人の作品が多い。明代の院体(宮廷体)の作品はとても豊富で、風格は多く両宋代の院体画を継承しており、特に花鳥画はそうである。絹本が多く、画法は精緻、サイズは大きめで、落款は少ないか簡単である。後人の多くが宋画を重んじたことから、これらの作品を大作から小品に裁断し、一つのもから二つに分け、もとの落款を切り取って、宋元の名家の落款を付け加え、宋画として金儲けした、そうような作品が少なからず伝来している。明代の李在の作品で郭煕に変えられたものが多いのは、一方では明代の落款が簡単で、「添款」しやすく、もう一方では二人の画家の作品の風格が似通っているからである。

 清代の「揚州八怪」の一人、黄慎に黄応元という学生がおり、黄慎の山水画作品を模倣するのが上手だった。かつて黄応元の山水冊頁を見た時、前に黄慎の「以写吾心」四字の題字があり、画の後にもとは「黄応元」の落款があったが、後人がこの「黄」字を残して「応元」を擦り取り、「慎」字を加えて、黄慎の真跡を偽作したのである。

 対聯の偽作は明代に始まる。多くは「拼改(組み合わせの改変))」を行い、徹底的に原作を破壊したものである。明末から清代にかけて、行書で対聯を書くことが流行した。それゆえ偽作者が多い。たとえば明の万暦年間の人、徐渭〔徐天池〕の一幅の立軸を七言詩の対聯に作り変えたもの、また文徴明の字から、二句を別に集めて複製したものなどは、高利を得るためのものである。

 吉林省博物館が所蔵する蘇東坡手巻には、後に李東陽の真跡の題詩がある。しかし後人は題詩の前後を二分割し、真跡の題詩の下の空いているところに「東陽」二字を付け加えた。しかし「東陽」の落款は、李東陽本人の落款では多く見られないものである。この作品は、「真字偽款(字は本物で落款は偽物)」のたぐいである。さらに南京博物院が所蔵する董其昌の署名がある手巻の画は、実は清の朱ミ之が董其昌の宋人の筆意を帯びた山水画を模倣したものである。朱ミ之は模倣画の後に、董画は真跡との跋語がある。最初に見た時は董其昌の作品であると思ったが、詳細に見てはじめて本物の跋を切り取って偽作の後にくっつけたものにすぎないと分かった。これは「偽画真跋(画は偽物で跋は本物)」で、これも「割改(切り取って作り変える)」の典型的な作り方である。

 《荔院閑眠図》の名を持つ紈扇(絹張の団扇)は、作者が画面上の石縫(縫い目)に自分の名前を書き、後で石緑(顔料の一)で覆っている。長い年月が経って、部分的に石緑が剥げ落ち、落款が現れてきた。これらの落款はほとんどが孤本であり、参照すべき二件目がないので、落款の真偽を判断する時に最重要なのは、墨色が扇の骨にまで入っているかどうかである。もし落款の墨色が浮かび上がれば、おそらく後で付け加えたものである。

 このような例は非常に多い。無款の明人《山水図》軸は「添款」されて宋の馬《観瀑図》軸に変えられている。明代の画を宋代の画に作り変えた例である。明末清初の孫杕の《梅花水仙図》軸は孫杕の落款を抉り取り、「添款」して陳洪綬の《梅花水仙図》軸に作り変えられている。有名ではない絵画を大家の作品に作り変えた例である。明の陳道復の《四季花卉図》巻は「題真画假(題字は本物で画は偽物)」である。しかし偽作者の作り変える型が繁多で、方法が巧妙であっても作り変えられた作品はつまるところ破綻をきたすものである。「挖」、「割」、「擦」、「洗」、「刮」などは、紙や絹に必ず痕跡を残し、「添」、「補」の筆墨は紙や絹に浮かび上がって吸い込まないし、墨色も原作と同じでありえない。「添」、「補」の筆墨の多くは息吹が新しく、これらの破綻は鑑定者の最有力の根拠である。

 

(6)造

 

 「造」は偽造である。この形式は大体二種類に分けられる。一つは基づくものがある偽造で、「本(本源がある)」と呼ぶものである。多くは偽造者が偽造される書画家の特徴、風格を熟知し、偽造される者の名声を利用し、その書法や画法の特徴によって偽造し、売買して高利を得るものである。この偽造法は「熟造(熟知した偽造)」とも呼ばれる。もう一つは「冒造(でっちあげ)」であり、これは全く本人の作品を見たことないのに無理に偽造するものである。この偽造法は明清時代に流行し、往々にして地域的な偽造をなした。

 「熟造」は、一般に偽作者が偽造される者と時間的に遠くなく、その書画を見たことがあるものである。たとえば文葆光は文徴明の五世の孫で、常に文徴明を偽造した。黄慎の作品を偽作した者は、多くが福建の同郷人か学生である。その学生の巫進は、黄慎偽造の水準が最も高くかつ最も似ており、花卉、山水を多く描き、偽黄慎として有名であった。

 清代の「揚州八怪」は、傲慢で自由奔放、独特で風変わりな性格であり、さらにその書画でも独自の味わいがある。八人は多くが水墨の写意画の技法を得意とし、芸術において個性の発揮を重視した。なかでも鄭燮の名声が一番である。よって鄭燮の作品を偽造する者が最も多い。その手法は多種多様でたくさんある。なかでも、偽作の達人は、山東の譚雲龍であろう。譚木匠とも呼ばれ、いつも鄭燮〔板橋〕の偽物作りをしていた。

 故宮博物院が所蔵する陳馥・鄭燮《苔石図》軸は、画面上に以下のように題してある。

 

  鄭燮が石を画き、陳馥が苔を点じた。二人の妙手から出て、この石を仕上げた。そばの人はどこから飛んできたか分からない。陳馥・鄭燮画き並びに題す

  ――鄭家画石、陳家点苔、出二妙手、成此巒巌、旁人不解、何処飛来。陳馥・鄭燮画并題。

 

この図を二幅見たが、ともに譚雲龍の手であった。譚雲龍の画石は苔を点じないものはないが、鄭板橋の画石が苔を点じるものは極めて少ない。

 鄭燮は《蘭石図》軸を画き、その上に次のように題した。

 

  まず石を配置し、次に蘭を画き、次に竹を組み合わせる。これは画の順序である。石は苔を点じない。それが私の気を濁らせるのを恐れるからである。

  ――先構石、次写蘭、次襯以竹、此画之層次也。石不点苔、惧其濁吾画気。

 

 また陳松亭〔鄭板橋の親友〕が鄭板橋に題字を請うた作品の真跡を一幅見たことがある。それは《鳳羽鶏毛竹図》で、その上に次のように題してある。

 

  ひとしきりつむじ風が大地を巻き上げ、竹枝がぶつかりあってかたまりになっている。  わけもなくさらに雨が吹き荒れ、鳥は羽毛が濡れて整えられない。陳松亭画き、鄭板橋題す。

  ――一陣旋風巻地来、竹枝敲打靠成堆。無端又是瀟瀟雨、鳳羽鶏毛理不開。松亭画、    板橋題。

 

下部に「鄭燮」の落款がある。この作品は現在北京故宮博物院が所蔵する。

 以上挙げた偽作は、すべて基づくものがある偽造で、「本」と呼ぶことができる。

  「冒造」は完全に架空の臆測で作られ、各地に書画の作坊(店屋)があった。主なものは次の数種である。

 「蘇州造」は、「蘇州片」とも呼ばれ、明代の万暦から清代の乾隆の時期にかけて盛んで、江蘇の蘇州一帯を指す。作品には絹本の青緑彩色で、細密な山水画が多く、落款はすべて古代の有名な画家、趙伯駒、張択瑞、仇英などである。蘇州造は創造性に乏しく、限界があり、識別しやすい。

 「湖南造」は、清代に湖南の長沙一帯に出現した。作品は多くが綾本の、染色を経た小米黄(クリーム色)と湖藍色(ブルー)の二種類で、画法は現代の万年筆のスケッチに似ており、筆路は真っ直ぐで細く、特徴がある。書画ともにそうである。「冒造」するのはすべて売れない書画家の偽画かもしくは明清の交替期に貞節に殉じた人物の作品である。たとえば南京博物院が所蔵する何吾騶の《松石図》軸は、上海朶雲軒蔵の落款では鄒応龍と周光年などの作品である。彼らは、伝記の記載が少なく、書画の遺品も少なく、比較のしようがないが、好事家が珍重したので、偽造作品を真跡として収蔵したものである。

 「河南造」は、明末清初に河南の開封一帯で流行し、明らかに地方の特徴をもっていて、宋元の名人の書法を専門に偽造した。たとえば蘇軾、黄庭堅、米芾、文天祥などや、岳飛、朱熹、海瑞などの大人物の作品がある。紙本が多く、紙は粉箋に似たたぐいで、つるつるして蝋引きしてある。書法を偽造した後に、手でもみくちゃにして、多くの氷紋をもみだし、あたかも古い紙のようにし、うわべだけの姿を作り出してある。これははっきりした特徴で、鑑別しやすい。

 「揚州造」は、特徴が突出している。偽造書画は基本的に揚州の画家の範囲に限られ、特に鄭燮〔板橋〕の偽画など「揚州八怪」の作品を主とする。さらに石涛〔原済〕の作品を専門に作り、その偽作は字の撇(左払い)と捺(右払い)が皮なめし職人が用いる刀の形状に似ていることから、「揚州皮刀匠」と呼ばれる。北京故宮博物院が所蔵する綾本花卉大巻は、特徴がかなりはっきりしていて、典型作品の一つである。

 「広東造」は、絹本彩色が主で、宋人や宋以前の大家の人物画を専門に作る。元代はあまり見られず、明代は絹本の彩色の山水、人物、花鳥で、一部院体画を含み生産している。形式上、巻や冊は少なく、軸物が多く、数量は他の地方に及ばない。今も広東ではこの種の作品を探し当てることができる。

 「江西造」は、数が最も少なく、作品の多くは紙本の羅牧の山水であることが今日すでに分かっている。墨法や画法は簡単で、元人の筆意に近い。この偽造作品は、江西で見たことがある。

「北京造」は、「後門造」と呼ばれ、北京景山後街の地          明 何吾騶《松石図》     安門(俗称後門)一帯に集中するのでこの名がある。清代の「臣(臣下)」の書画の偽作を専門とする。作品は丁寧に書かれており、工筆の彩色が多く、絹本を主とし、紙本もあり、題材が広い。宮廷様式の表具を採用し、華麗で立派である。たとえば郎世寧《円明園観囲図》長巻は最も著名である。しかしこの偽造はまじめに識別すれば、明らかな遺漏があり、偽作を識別することは難しくない。

 以上の各地の「冒造」以外に、世に登場した時間が最も遅く、偽造が一番本物に迫り、そのうえ最も識別が易しくないのが「上海造」である。

 「上海造」は、以上各地の「冒造」とは異なり、偽造に基づくものがあり、著作にある偽画を専門に作るもので、水準がとても高い。一般に晩晋や宋元の名人の作品を偽造し、明清の作品は相対的にやや少ない。偽造方法はまるで今日の博物館の複製品のようで、一幅の画から同時に二、三件を複製する。善く出来ているだけに見分けるのが難しい。一般の収蔵家は原本を見たことがなく、著作にあることを知るだけなので、この偽作を本物だと思い騙される。「上海造」の特徴は、偽造品と真跡が全くそっくりで、表具も少しも違わず、収蔵印の位置もすべて同じであることである。時には真跡の外側の簡単なメモまで偽           清 郎世寧《山水人馬図》(後門造)

造画の上にぶらさげて表具するので、識別が容易ではない。偽造の工程は、現代の博物館の複製に似ており、画をす人、字を書く人、印を刻す人に分業して合体して偽物を作り出すのである。元の盛懋《秋江待渡図》軸は、紙本の墨色画で二件あり、その真跡は現在北京故宮博物院が所蔵するが、上海の偽造品は国外に売られた。

 「造」は、書画の偽作で最も普遍的に使用される形式で、その数は最大で、偽造の水準に上下がある。「熟造(熟知した偽造)」であろうと、「冒造(でっちあげ)」であろうと、一般的にはその破綻を比較的用意に看破できる。たとえ「上海造」のような現代の複製方法に似た偽造であるとしても、我々は経験を積み、規律を掌握すれば、その偽りを見破ることが出来るものである。

 

2,他の鑑定要素

 

 古代書画の鑑定は、真偽を見分け、是非を明らかにし、無名の作品の年代を確定することに主眼がある。以上に挙げた、臨、倣、代、改、造は、偽作の形式や方法であり、もし古代の作品を一件手にとって、その真偽を見分けるならば、さらに古代の書画についてのより多くの理解をしなければならない。たとえば歴代の書画作品の時代的特徴、異なる書画家の作品の風格、落款の習慣、避諱の問題、各時代に使用される紙や絹の材料、装丁の形式など、前もってしっかりした見識があってこそ、偽作に騙されることなく、真跡と疑わないのである。いくつかの点についてはすでに専門に研究を行う人がいるので、ここでは目睹した作品について、簡単にいくつかの現象を述べる。

 

(1)時代と作者の風格

 

 古代の書画作品には、各時代に異なる風格の特徴がある。たとえば唐以前の画は彩色画が多く、唐代より水墨や工筆が始まる。唐以後は工筆と写意が併用され、墨筆の写意が徐々に増える。人物画には、むかし「曹衣出水、呉帯当風」(注16のことばがあった。当代の人物画は古代絵画におけるピークを創造し、その線描画法は精神を伝え、衣服の線条紋様は行雲流水のごとく、筆の頓挫がない。蘇軾は呉道子の画を見て、次のように言っている。

 

  呉道子の画く人物は、灯によって作られた影絵のように、前面はこれを迎えて前から写し、背面はこれに順って後ろから写し、両側はこれお旁側から写し、横斜平直さまざまな方向の線が、互いに相殺し合って、結局自然の寸法にかない、毫末ほどの差もない。その筆法は法則の中に新機軸を出し、豪放の外に妙理発揮し、いわゆる游刃余地、運斤風を成すもので、古今の第一人者である。

  ――道子画人物、如灯取影、逆来順往、旁見側出、横斜平直、各相乗除、得自然之数、    不差毫末。出新意于法度之中、寄妙理于豪放之外、所謂游刃余地、運斤成風、蓋古今一人而已。(注17

 

 古代の花鳥画は、五代の黄筌、徐熙の二家を代表とする。いわゆる「黄家富貴、徐熙野逸」である。その後、工筆は黄筌に模倣し、写意は徐熙を真似するものが多くなる。黄筌の画法は双鉤が多く、花鳥や樹幹を問わず、すべて先に画いてから彩色する。一方の徐熙はただ一筆、二筆だけで輪郭を取ってから色を填めている。つまり先に墨を入れ、後から色を施すのである。徐熙の作品は、天候が変化して梅雨になると、顔料が剥げ落ち、下の墨の痕跡が現れ出てくる。徐熙の画法模倣の学習がツ南田に伝わり、没骨法へと発展し、一色で葉を画き、別の一色で幹を画き、わずかに彩色するだけである。明代の花鳥画で影響が最も大きいのは、呂紀である。呂紀の落款は簡単で、後人が宋人の名家の落款に作り変え、遼代の作品に作り変えたものが多い。呂紀の作品の特徴では、樹幹に皴法を用いたことが突出しており、この特徴はかなりはっきりしているもので、それ以前の作品にはなかったものであり、この特徴を掌握すれば呂紀作品の真偽を断定できる。

 明代中葉〔嘉靖年間〕には、絵画作品の題材をある人の詩意によって作画するようになる。唐人の一句、二句、絶句を引いたり、他の人の詩意を書いたりすることは、明代中期の絵画の特徴である。書画の名家の作品に「欽賜」や「欽取」のたぐいの印章があるのは、明代早期の作品だけで、嘉靖以後には登場しない。これも明代早期の絵画作品を鑑別する重要な特徴である。

 偽作者は法書であろうと絵画であろうと、総じて見れば、偽作するある名家の作品では、その名家の中晩年の筆墨が多い。それは公認され、かつすでに個人の風格を形成した作品だからである。早期の作品は一般的に各家を臨模することが多い時期であり、まだ自己の風格を形成しておらず、あまり公認されていないので、偽作者はこの段階の偽作をすることが少ない。偽作者の目的は、手っ取り早く経済的価値を得ることにあるので、社会が公認したその時期に属す書画の風格を偽作する。

 法書の中の書体では、晋唐は小楷が多く、唐代は楷書の大家が数人おり、宋代は行書が流行し、元朝は行書の方が楷書よりも多い。明朝では行書、館閣体、楷書がともに重んじられ、楷書が極端化したと言うことができる。館閣体は、明初に流行し、たとえば『永楽大典』はすべて楷書である。この書体は、ずっと清末まで使用され、なんら変化のないもので、多くは沈度の書体である。この書体は「台閣体」とも呼ぶ。この書体にも朝廷と在野の区別があり、朝廷では真面目な楷書である。明清両朝では書法による試験が盛んに行われ、楷書の基礎的技能がしっかりしていることが求められた。清乾隆帝の時期に「臣」と署名した落款はすべてこの書体を書いている。また大量の尺牘などは、一般に楷書体が多い。重視されなかったが、行、草には個性がある。

 対聯は明代の天啓、崇禎時期にようやく出現し、清朝で流行した。この時期以前に、文徴明の対聯があり、確かに文徴明の真跡であるが、文徴明が書いた対聯の形式ではない。それは後人が文徴明が書いた五言詩や七言詩から二句を摘出し、軸に仕立てて対聯の形式に作り変えたものである。このような「珍しいから貴重である物(物以稀為貴)」は、経済価値が倍増する。それ以前の対聯書法には、偽造作品が多い。たとえば明万暦年間の徐天池〔渭〕の対聯は、二幅見たことがあり、善く書けているが、詳細に見た結果、張大千の偽造であった。またかつて受理した文物の中に蘇東坡の対聯があるが、蘇東坡在世の宋代には対聯形式で書写したものはない。記載では、宋代には楹聯があるが、それは家屋の母屋の前にある二本の柱に、聯句を象嵌し彫刻を施したもので、書写した対聯はない。

 明代に書軸が増えだした。たとえば明末四大家の邢侗、張瑞図、米万鍾、董其昌に書軸がある。なかでも米万鍾と張瑞図の書軸は大作が多い。王鐸の頃になると、大作がさらに増えとても長い。これは家屋の建築と関係し、屋根が高く、広間が大きくなり、大作の対聯の需要があったからである。天津芸術博物館所蔵の金冬心(農)の横軸は、とても長く、特殊な形式である。横軸を掛けるものはあまり見かけず、時代は晩い。明代書法の表具では一般に軸、巻物、冊頁の三種類の形式があり、巻物と軸が多く、冊頁はやや少ない。清代では巻物が少なく、対聯と軸が普遍的である。

 

(2)紙や絹の材質変化

 

 書画作品に用いられる材料の紙や絹は、時代ごとで異なる特徴がある。これも書画鑑定の重要な一面である。前の時代の紙や絹を後の時代の人はよく使うが、後の時代の紙や絹を前の時代の人が使うことは絶対ありえない。紙や絹の年代的特徴をしっかりとわきまえれば、少なくとも後の時代の紙を用いて前の時代の書画を偽造した贋物を排除できる。たとえば宋人の米芾の臨品は、よく後の時代の人に唐人の品と見なされるが、紙から見れば、宋代の竹紙である。米芾は竹紙を多用しており、竹紙は宋代に登場したものである。

 明代に安徽省宣城で作る紙、「宣徳紙」が登場する。つるつるなので「鏡面箋」と呼ばれる。この紙は非常につるつるしており、墨がまったく紙に吸い込まれず、見たところ蝋引きした蔵経紙のようであり、きめ細かく、何の紋様も見えない。一般の紙にはすべて横梳きの紋様か立て梳きの紋様があるが、この「宣徳紙」にはまったく梳き目の紋様が見えない。明代の董其昌、清代の王原祁は「宣徳紙」を用いて作画している。この二人以外にこの紙を用いた作品はまだ発見されていない。もし彼らが作品に用いた紙とこれとが異なる場合は、偽作の要素がかなり大きい。なぜなら彼らに作画を請う時は、必ず良い紙を用い、悪い紙を用いることはありえないからである。反対に、もし上海の偽作画が宋代の蔵経紙を用いるならば、蔵経紙の表面に蝋引きし、たとえもともと書いたり画いたりしてあっても、墨を吸わないので、綿に清水を含ませて拭き取ることができる。このように、宋人の紙は元人の画を偽造するのに用いられる。

 明朝では、蝋箋紙は主に字を書くのに用い、大きな金粉のあるものを「灑金箋」と呼び、細かい金粉があるものを「雨金箋」と呼んでいる。灑金箋は明の宣徳年間以前の紙で、その後の使用が少ない。明の宣徳から明末にかけて、表面に生石灰を塗った紙があり、とてもつるつるで、当時は多く字を書くのに用いた。たとえば張瑞図〔二水〕、董其昌の作品はこの紙を用いている。明代中期以前にはこの紙はなく、その後この紙を用いた作品も少ない。紙の団扇や扇子は多く粉末を帯びた紙を用いる。その最もはっきりした特徴は、明代ではほとんどが金扇面、すなわち泥金または灑金の扇面を用いることで、白紙の扇面は明末清初になってようやく登場する。偶然に明朝末期の白紙扇面を見たことがあるが、清康熙時代にはまだ金の扇面が多く、紙と金の扇面を併用しており、雍正、乾隆時代になると、一般に白紙扇面を用いている。

 記載によると、宋人李公麟が白描の人物を画く時は、往々にして澄心堂紙を使用した。しかしその澄心堂紙は今では一枚も見ることが出来ない。これが正しいかどうか今ははっきり分からない。乾隆年簡には「乾隆倣澄心堂紙」が模倣して制作され、紅い印章を押してあり、梅花玉箋の上にもよく「乾隆倣澄心堂紙」の印章がある。本物の澄心堂紙を見ることができないが、記載によれば堅くてつるつるした紙で、まったく梳き目の紋様が見られず、再加工の紙のようで、継ぎ目がなく、「鏡面箋」が澄心堂紙に近いという特徴がある。

 絹本の時代的変化はあまり大きくない。絹糸の縦横の縫い合わせがしっかりしており、ほこりにも強く、光があって細やかで、時間が経っても疲労しない。きめに変化がないので、宋代の絹か元代の絹か見分けづらい。このような時は、原作の時代的においや風格の特徴を見なければならない。たとえば故宮博物院所蔵の馬《層畳冰綃図》(すなわち《梅花図》)や宋徽宗《聴琴図》の二幅は、原跡の保存がよく、絹が新品のように見えるため、黄賓虹は新しいものであると見間違った。絹本は保管、収蔵、壁掛けや展観の条件により異なり、色の変化が大きい。絹には何種類もあり、さらに扁糸絹、円糸絹に分かれる。たとえば五代南唐の徐熙の画の絹は、粗い糸で織られ、きめが粗い。画絹はどの時期にも粗いと細かいとの区別があり、宮廷用の絹はすべて細密のもので、画院以外で使用した画絹は粗めのものが多い。たとえば明代で内廷供奉にいる画家の多くは細絹を用い、光沢があり細やかである。民間のものはやや粗めである。明代中期に、紗のように透き通った粗絹があり、張平山がよく用いた。《達磨図》はこの絹を用いて画いた作品である。また明人の張路が用いた画絹は、すべて細かくなく、やや粗めである。一般に宮廷絹と民間で使用する絹は大きな違いがあるが、民間で使用した絹も完全に細絹を排除することはできない。

 宋代と宋代以前の書画材料では、ほとんどが絹を使用し、紙を使用するものが少ない。わずかに米芾が紙を用いるが、現在米芾の画は一点も真跡がなく、米芾の子の米元暉が南宋時期に紙を使い始めているだけである。北宋では李公麟が紙を用いたことがあり、他はすべて絹を用いている。元朝では、紙を用いることが絹を用いることより多くなり、とりわけ元四大家は紙を多用するが、絹も使っている。たとえば倪雲林の作品はほとんど紙を用い、絹を用いた作品は数点にすぎない。王蒙は時に絹を用い、呉鎮も紙と絹を交替して使用する。全体的に見て、絹より紙を用いる方が多く、時代が違えば用いる書画材料も異なる。

 

 

宋 馬《層畳冰綃図》

(3)款識と題跋の特徴

 

 書画作品の署名も、作品の真偽を鑑定する重要な参考証拠の一つである。時代ごとに署名が異なり、古くは落款がなく、その後だんだんと姓名や字号の署名、および詩文を題したり、上款と下款を入れたりするようになる。署名にも朝廷と在野の区別があり、画院の画家は多くが簡単な署名であり、民間の画家は逆に長い落款が多い。現代のサインのように、署名は最も個人の色彩が強いので、鑑定の中では重要な価値をもっている。

 北宋時期に、絵画作品の落款が増えだす。故宮博物院が所蔵する数件の北宋伝来の作品にはみな落款がある。たとえば李公麟《唐韋偃放牧図》は絹本、墨筆で、淡く彩色してあり、巻首に「臣李公麟奉勅唐韋偃放牧図」の署名がある。南宋時期に、画家たちは単に署名するだけでなく、詩文を書きつけるまでに発展する。しかし南宋画院の画家の題款(書付と落款)は、非常に簡単である。一般に「臣」字を書いてから、「臣馬遠」や「臣夏圭」などのようにただ姓名を書くだけである。そして北宋から清代まで、宮廷画家はみなずっとこの伝統を守っている。清代に戸部侍郎の官となった王原祁は、皇帝の勅命で作画する時には、いつも「臣」字を書き、さらに「原」字を一筆で書いている。王原祁は「臣」字落款の作品のほかでは、「原」字に何種類かの書き方があり、「原」字を書写する変化や規律を掌握することによって、王原祁作品の真偽を鑑別することができる。

 元代に、絵画の画面上に題跋を入れることが多くなる。たとえば元初の趙孟頫、銭選から黄公望、王蒙、倪瓉、呉鎮の「元四家」までみな題跋があり、後人にとって多くの逸品を遺している。なかでも最も代表的なのは趙孟頫である。趙孟頫作品の署名落款には必ず年号がある。たとえば《秋郊飲馬図》は趙孟頫の典型作品である。一幅の右上方に小楷で自ら題した「秋郊飲馬図」五字があり、左上方に「皇慶元年十一月子昂」と署名落款がある。これは宋徽宗(趙佶)が始めた、巻物の前部に図名を、後部に署名を加える形式を継承している。そして画面の下部に「趙子昂氏」の朱文印、右下に「大雅」の押角印(角の空間を押さえる印)、右上に「趙」の押角印を押してある。趙孟頫作品にはよく「大雅堂」、「松雪斎」の二印が見られるが、これは趙孟頫が所蔵していた二つの古琴の名を自ら取ったものである。趙孟頫の書作品の署名落款とツ印に「水精宮道人」があり、「水晶宮道人」と書くものは偽作である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元 趙孟頫《秋郊飲馬図》

元代の倪雲林は、作品に題詩が多く、ほとんど各作品上に長い五言詩または七言詩があり、その後ろに自分の署名を入れ、年月を書く時は常にその傍らに「干支」の二字を書く。清代に浙江で使用したのは倪雲林の落款の形式である。倪雲林が友人に贈る場合の画は、一般に「題贈」、「画贈」と書くが、明代中期までずっとこの書き方が用いられた。明万暦以後は「題似」、「画似」と書くようになる。

 題款のなかでの呼称は、明末から清初にかけて、具体的には天啓から康煕43年までは、「社兄」、「社長」、「詞兄」、「社盟」などが流行した。この当時は講学や結社の風潮が隆盛した。康煕43年に結社を禁じたので、「社兄」、「社長」などの結社と関係する呼称は使用しなくなった。これらは書画鑑定で掌握する時代的特徴である。

 明代画家の徐渭は、作品の落款によく「徐渭」の「渭」字を分割して「水田月」と書く。時には「秦水田月」の印章を押している。徐渭に《墨花図》巻という紙本の墨筆があり、それに「秦水田月」の印が押してある。この印の「秦」字は「徐」字の代わりである。「徐」字は点画の中に三つの人字があり、秦字の上部も三人だからである。徐渭の落款の形式は独特で、清代の「揚州八怪」などに大きな影響を及ぼしている。

 清代の落款の形式は変化に富む。たとえば「揚州八怪」の落款は、常に姓名、字号を何種類もの異なる書き方で書いている。その中から作品の真偽や年代を鑑別できる。

 李鱓の落款は干支を書かず、「人磨墨」ではなく、常に「墨磨人」と書く。このほか3顆の印章があり、ともに雍正帝期の作品である。「墨磨人」の落款のある作品はすべて李鱓作品中の最も良いものである。乾隆帝期になるとこの落款を用いなくなる。乾隆帝期の作品に「墨磨人」の落款があると、偽作の可能性がある。李鱓の名は落款では二つの書き方がある。乾隆14年以前は、「鱓」字を多く「■(魚のれっかを大に作る)」に書き、乾隆14年以後は「■」を用いず、古人の碑刻文字に基づき「觶」に書くようになる。このほか康煕末から雍正を経て乾隆10年以前は、一般には号を行人偏の「復堂」と書き、乾隆10年以後は、大きく変化して「■堂」または「腹糖」と書く。印章の「李鱓」も「裏善」に刻を変える。このような同音字の使用法は、彼以前の画家の作品中に見られないものである。

 北京工芸美術学院(注18所蔵の李鱓作品は、紙本の墨筆画で、非常に素晴らしい一幅との鑑定を経ており、落款に「乾隆十八年」とある。しかし名の「李觶」の「觶」の字に、後人が四点を加えて「■」に作ってある。偽作者が彼の落款のルールを知らず、蛇足を免れない。

 黄慎の落款で最も早いのは「黄盛」である。中央美術学院は彼の蘇東坡詩意画の冊頁を所蔵し、天津にも彼の人物画の冊頁がある。ともに「黄盛」の落款である。全国にたった一つ「黄勝」と落款のある、花卉を題材とした冊頁があり、またほかに「恭」字の落款のある肖像画があるが、ともに黄慎の風格に合致する。

 金農の落款の形式変化が最も多く、「農」字の異なる書き方が8種類ある。善く画いてある扇面を見たが、羅両峰〔聘〕の代筆画であるが、落款に「金由」の二字がある。「由」でもって「農」に代えてあり、確かに金農の親筆である。金農が自分で刻した印章は、「農」字を多く「莀」に作る。しかし時期によって異なる印章があり、たとえば「乙未年自作」は対聯や軸に多く押してある。また「娘子関墜馬後書」は面白い印である。金農は号が非常に多く、そのなかで「亀林居士」は、自宅で亀を養っていたことによって名づけたものである。その亀は背中に緑色の苔が生え、青々とした毛で、とても可愛い。しかし金農は自分が上手く画けないので、蔡嘉〔松原〕に頼んで亀を画いてもらい、あわせて「神亀篇」を作文したところ、詩友たちから称賛されたので、「亀林居士」と自ら号した。北京故宮博物院は彼の漆書軸を一幅所蔵する。落款は「亀龕居士」であり、金農の法書の真跡である。金農は友人に送る手紙によく「亀龕居士」を用いている。自作画を友人に送る時は、一般に「金丁」を落款に用いるが、彼の画から見ると、人物の線は法則のあるものではないので、多くは清代の代筆である。

 鄭燮〔板橋〕の落款は三度変化した。早期作品は「燮」を常用し、後期作品〔乾隆後期〕は多く「■」または「■」と書く。これには「祥」、「禅」の意味がある。しかし「■」字と書くのは、わずかに三件見た               清 鄭燮《書画図冊》部分

だけである。鄭燮の号は「板橋」一

つだけであると自ら言っているが、広州市美術館で「康煕六十一年」と鄭板橋が署した欧陽詢体の楷書作品の落款に「睢陽鄭燮」とあるのを発見した。

 李方膺は他の画家と異なり、写意画が多く、題材は梅花、風雨竹が最多である。梅花を画いた作品は、通常は「梅花手段」や「換米糊口」の二顆の大印が押される。李方膺は早期に李方鄒と名のり、雍正三年に李方鄒の名で花卉数幅を描いた作が伝来する。その後この名を用いず李方膺に改めた。

 そのほか、絵画の落款の位置が異なることからも、作品の時代を断定できる。絵画の落款の形式は、一般に「平行款」、「抬頭款」の二種類がある。いわゆる「平行款」は、すべて自分の名や字を書く。題して誰々に贈る場合の落款は、上款の第一行をあるところまで書き、二行目もあるところまで書く。平行款が登場する時代は古く、その規律は元朝に上款を書くことが起ってから、ずっと明の中期〔嘉靖〕以前の「呉門四家」まで続き、あらゆる上款が平行款である。一方、「抬頭款」の登場は、平行款より晩く、だいたい明中期以後からで、清代まで多く使用される。このことも書画作品の鑑定においては、注意すべき重要な特徴の一つである。一般に偽作者はこれらの規律を知らないので、容易に手抜かりが露呈する。たとえば台北故宮博物院所蔵の元代の高克恭、明代の王紱などの画は、いくつかの雑誌でよく表紙に掲載される。しかし多くの作品の上款は平行款ではなく、すべて高い空間にあり、「抬頭款」を使用している。これは一般の規律に違反するもので、その作品は否定すべきものである。

 

(4)諱を避ける

 

 封建社会では、官と民の書写文書の中で、君主や目上の人の名と字(あざな)を直接書くことができず、必ず諱(忌み名)を避け、敬意を表さなければならなかった。これは宋以後だんだんと厳格になる。それゆえ古代の書画作品中の題字、落款、巻末の題跋と書法の原文には、往々にして「朝諱〔前朝や本朝の帝王の名と字〕」と「家諱〔作者の先輩の名と字〕」が出現する。この諱を避ける(避諱)方法は主に三つある。第一は缺筆である。避諱しようとする名と字を一筆〔多くは最後の一筆〕だけ書かないものである。第二は避諱する名と字を同義字か同音字に書き換えるものである。厳格には、同音字さえ許容しない。諱の音を表すのを嫌うためである。第三は避諱する名と字を空白にして書かないものである。避諱する文字が時代によって異なることから、一般に書画作品の年代を判断することができる。当然ながら書写者の粗忽さから、避諱すべき文字を避諱していない場合もあり、書画の真偽を鑑別する時には注意しなければならない。

 たとえば唐の孫過庭書と伝えられる《景幅殿賦巻》は、唐朝の諱を避けるべきであるが、太宗李世民の「世」、「民」二字を避けておらず、南宋高宗趙構の名を避けている。すなわち繁体字「構」を缺筆して「■」字に作ってある。これは決して唐人の書ではなく、古くとも南宋の高宗趙構時代の人が書いたものである。

 清代の康熙帝は、名が玄Yである。清初「四王」と呼ばれる一人、王鑑は字が「玄照」であり、康熙帝が即位後、絵画作品の落款では、避諱して「玄照」を「元照」に改めている。当時の作品では、一般に「元照王鑑」または「王鑑元照」と書き、時には「缺筆」を用い、「玄」を「■」と書いている。乾隆時代のケ琰〔石如〕は、嘉慶時代には嘉慶帝の名、顒琰を避け、「ケ琰」の落款を用いず、ただ「ケ石如」の名で書き入れている。さらに晩清の画家の呉大澂は、最初の名が「呉大淳」であるが、同治帝の名、載淳を避けて、「呉大澂」に改めた。

 宋代の避諱のことは、すでに米芾が『画史』に総じて書いており、近代の陳垣の著『避諱挙例』は専門的に歴史上の避諱を論じている。これらは古代書画の真偽を鑑定し、時代を断定するうえで、信頼できる根拠を提示している。もし書画作品に落款があり、避諱すべき文字を避諱していなければ、その作品は偽物の可能性がある。

 

(5)表装

 

 古代書画の真偽を見分ける方法には、さらに多くの面から経験することがある。たとえば表装(装)の形式である。元代の巻物を例に挙げると、元代表装の巻物は、前には「引首(本体の画の前に付ける部分)」がなく、空紙があるだけで、印章を押す、題跋を書するには便利である。しかし後の時代には、「画心(本体の画)」を保護するため、前に引首紙を加え、多くは蔵経紙を使用した。元人の巻物が、後の時代の表装を経るのは、画心を保護するためであり、また多く引首を加えるのも、表装における異なる時代の区別である。もし元人の表装の書画作品に、前に引首紙があり、完全な縫章(引首紙と本紙の継ぎ目に押す印)が押してあるならば、偽物であると断定してよい。

 総じていかなる文物にも、本物には本物の規律があり、偽物には偽物の規律があり、弁証的方法を用いることによって、客観的に分析し、観察すれば、真偽を明らかにすることができる。

 

3,特定の研究テーマ

 

 多くの偽作の方法のなかで、「倣」と「代」の情況が最も複雑で、最も人を悩ますものである。なぜならば、模倣者であれ代筆者であれ、彼らは「倣」や「代」の原作者の書画の風格と創作の方法を熟知しており、時には原作者の子孫、学生という密接な関係を持つからである。そのうえ、「倣」や「代」の本人にも一定の、時には高い芸術水準があり、また「倣」や「代」の作品は多くが自分で書いたもので、自然で偽作のにおいがなく、真跡であると信用させやすいからである。よって、書画鑑定の難点であり特定の研究テーマの主たる対象になる。ある「倣」や「代」の書画作品の本来の状態を明示できれば、往々にしてそれが一群の伝来する書画作品にまで及び、まさしく一つを突破すれば、一かたまりを解決できるものと言え、その意義は極めて大きい。ここに私本人が研究し発見した二つの問題を略述する。

 一つめは、伝来する祝允明の書法についての鑑定である。古代人、現代人を言うまでもなく、文献の記載は研究の発見であるが、おしなべて祝允明の書法は、本物は偽物の十分の一であると言っている。それは祝允明の生前にすでに大量の偽作があったからであるが、指摘するのは容易ではない。

 60年代、筆者が張珩、謝稚柳両先生に従って、天津歴史博物館所蔵の書画を閲覧した時、一件の書法の巻物を観閲した。巻頭を開いて見るとすぐ、三人同時に祝允明の書であると言ったが、巻末の落款が現われると、なんと呉応卯の署名である。謝先生は感慨深げに「もしこの人が祝允明の書を偽作したら、鑑別は難しい」とおっしゃった。この一件はいつも忘れられない。80年代に入り、全国書画鑑定組に参加し、祝允明の書をたくさん見たが、呉応卯が書いた落款に類似するものが多く、かつては真跡と見なしていた。天津を巡った時に、もう一度あの呉応卯の書巻を見る機会があり、総合的に観察して、まさしくこの人が大量の祝允明の書を偽作した、と最後に鑑定の決心を下した。呉応卯は祝允明の外孫で、非常によく祝允明の書芸術の特徴を熟知しており、かつ偽書はその筆運びが完全に自分のもので、自然でのびのびしていて、書法が手慣れており、真跡であると信用させうるものである。しかし呉応卯の書法は、筆法に側筆が多く、筆力が明らかに軽く、祝允明の書の沈着穏健さとは異なる。このことから、長い期間を費やし、全国の公私に所蔵される、呉氏偽造の祝書と鑑定されたものが30数件に達した。この偽物の祝書のたぐいに、呉応卯と同時代の・景鳳、やや晩い張瑞図などの題跋もあり、みな真跡と信用されており、呉応卯偽書の騙す力の大きさを見ることができる。なぜなら彼が偽作した祝書は、数量が多く、水準が高く、この種の偽作をもって祝書の典型の風格の一つとするからである。もし呉応卯本人の落款を見ていなかったならば、おそらく今日でも誰も見破ることはできないであろう。これと似たような情況として、文徴明の五世の孫、文葆光に祝允明の偽書があるが、数量は多くない。

 さらに別の場合がある。上海博物館所蔵の祝氏27歳時の書法作品《秋声賦》小行書軸は、同館所蔵63歳時の《行書文賦》巻と書法が基本的に一致している。これは当然不可能なことである。これから分かるのは、さらに何人かの無名の者が、呉応卯と同じように大量に祝書を偽作していたということである。しかしそれらは今日、依然として真跡とみなされている。よって祝允明の書法の真偽を鑑定するという特定の研究テーマはまだ終っていない。

 二つめは、現代の張大千が偽作する古代書画についての特定の研究テーマである。

 張大千が古代書画を偽作したことは、世の人びとが知る事であるが、とりわけ清の原済、朱耷の書画の偽作は、素晴らしい腕前で形も精神もそっくりなので、鑑別が難しい。しかし張大千の偽作にとっては、これはわずかな一部分にすぎなし。私の長期間の鑑別経験から判断すると、彼の偽作は数量が多いだけでなく、題材が豊富で、手法が込んでいる。私が実際に見たもので言えば、収蔵豊富な公私の所蔵機関は、おしなべて張大千の偽作を本物として収蔵しないところがないほどである。またおよそ近現代の著名な収蔵鑑定家で、偽作に騙されなかった者は数少ない。例を挙げると、明の徐渭行書《七言聯》、倪元璐《倣米山水図》軸、張霊《寿星図》軸、清の方以智《枯木図》軸、朱耷《山水図》軸・《瓜果図》巻、原済《山水花卉》冊などである。      明 倪元璐《倣米山水図》(張大千模倣)

これらはみな張大千が古代書画として作ったものであり、当然ながらほんの一部分にすぎない。呉応卯や文葆光は専門に一家を模倣し、または数名の書画家を模倣すると言うならば、張大千は見たり、知ったりした書画すべてを模倣できたと言える。一通の親筆の手紙によると、彼は書画の著作に記載される著名な書画を探し出すことに注意し、所在が不明であると、著作の記載に基づきそのおおよそを模倣し、溥心■に題字を頼み、古い表装材料を用いて表装し、著作にあること、名人の題簽があること、旧式の古い表装による古代書画であることを満たした。彼は見たり、収蔵する名人の書画が非常に多く、また臨や学習で造詣を磨いたので、高い芸術水準をもっており、誰かを学んで誰かに似せるだけでなく、書画愛好者の異なる購買心理を推測することができたので、人は満足することが先立つ状態のなかで、知らず知らずのうちに彼の偽作を見分けた。

 張大千は模倣以外にも、「改款」や「添款」を利用した。時には真跡の画冊の一部を切り取り、切り取った画を偽作して、真偽相半ばする方法で偽作したりもした。たとえば清初の馮源済《山水図》軸は、もともと琉璃廠の店屋で長い間売れなかった代物だが、後に張大千がもとの落款を捨て去り、清初の王鐸の款識と印章に改めたところ、すぐさま売れたと言う。いわゆる宋の馬《観瀑図》軸も、張大千が落款のない明人画を利用して、「馬」二字を偽作し添加したものである。当然ながら、このような「改款」や「添款」は、私が経験の中で多少知って看破できたもので、そうでなければ偽款に基づき、誰の所作と定め難いものである。総じて、張大千の古代書画の偽作の手段は、非常に多くかつ巧妙である。それでは、どのようにすれば偽作を識別できるのかである。張大千は書画の造詣が高く、誰かを模倣して誰かに似せられるとしても、彼自身の筆法は覆い隠すことができない。たとえば、彼の運筆はやや速く、筆法が爽快で力強く、側筆ぎみで先がやや尖っており、最も似ている原済や朱耷の書画の、渾樸で、円やかで、重厚さがあるのとは異なるところがある。それゆえ古代書画の真跡と、張大千本人の落款や偽作した書画とをはっきりと体得し、その破綻を探し、経験を積みさえすれば、識別できるものである。

 認識は実践に源があり、書画の真偽の鑑定は、まず真跡を多く見ることである。そうしてはじめて偽物を見分けられるようになる。いわゆる「渭水の源流があることを知ってはじめて合流する水を見分けることができる(有渭方能弁水)」もので、本物を見ないで、偽物を識別できるであろうか。真偽は弛まぬ観察、比較と研究、分析を通じて得られるものである。くりかえし実践を積み、実践しながら考え、比較しながら鑑別することが大切である。この意味においては、本物を見るだけでなく、偽物も見なければならない。両面を理解してはじめて真偽の弁別、是非の明確化の目的に到達できるのである。

 

【注】

1 劉九庵氏の原文が( )で表示する内容を〔 〕で記し、訳注を( )で表記することにする。以下同じ。

2 原文は〈排比〉。この言葉は、もと語学・言語学の術語で、修辞法の一つをいう。構  造が似通い、意味が密接に関連し、語気がそろった三つ以上の句または文を並列する修  辞法である。

3 原文は〈典型的「様品」〉。「様品」はサンプル、見本品であるが、ここでは「作例」  の意に解した。

4 原文は『宣和画譜』巻七に見える。但し劉九庵氏は「故其家多得名画」の句を割愛して引用する。テキストは上海人民美術出版社1963年発行、于安瀾編『画史叢書』第二冊所收の『宣和画譜』を参照した。

5 原文は「法帖刊誤上」の「第一漢魏呉晋人書」に見える。テキストは古逸叢書三編を影印した1988年中華書局発行『宋本東観余論』を参照した。

6 原文は『宝真斎法書賛』巻七「馮承素蘭亭叙帖」に見える。テキストは世界書局1969 年再版、楊家駱編『芸術叢編』第一集第二十四冊『宝真斎法書賛』を参照した。劉九庵氏は、原文「故凡親見真跡、于昭陵未閟之先者、其臨模之手、不約而同」を割愛(下線部)して引用する。

7 原文は『宝真斎法書賛』巻七「万歳通天帖」に見える。前注6同様、テキストは世界書局1969年再版、楊家駱編『芸術叢編』第一集第二十四冊『宝真斎法書賛』を参照した。それによれば、「按唐史、則天后嘗訪右軍筆跡于王方慶家、方慶進者十巻、凡二十有八人、惟羲献見于此帖。……后命尽搨本留内、更加珍飾錦背、帰還王氏」と記し、劉九庵氏が引用する原文と文字に若干の異同(下線部)がある。なお原文の『唐史』とは、『旧唐書』巻89列伝巻39「王方慶伝」を指す。

8 テキストは上海人民美術出版社1963年発行、于安瀾編『画史叢書』第一冊所收の『歴 代名画記』を参照した。また訳文は、平凡社中国古典文学大系54『文学芸術論集』所收の岡村繁・谷口哲雄訳『歴代名画記』巻第二「三 画体・工用・搨写を論ず」を参照した。

9 テキストは上海書画出版社1986年発行『法書要録』巻二所收の『論書表』を参照した。また訳文は、二玄社1977年発行『中国書論大系』第一巻所收の杉村邦彦訳『論書表』を参照した。またほぼ同じ内容が、王僧虔の『論書』に「張翼書右軍自書表。晋穆帝令翼写題後答右軍。右軍当時不別、久方覚云、小児幾欲乱真。」と記される。なお『法書要録』が虞龢を南朝「梁」の人と記すのは誤りで、南朝「宋」の人であると、杉村氏は同解題に指摘する。

10 テキストは、上海書画出版社1986年発行『法書要録』巻一所收の『論書』を参照した。 また訳文は、二玄社1977年発行『中国書論大系』第一巻所收の吉田教專・神谷順治共訳『論書』を参照した。劉九庵氏が引用する原文と文字に若干の異同(下線部)がある。『法書要録』本は「康マ学右軍草、亦欲乱真。与南州識道人作《右軍書賛》。」に作る。

11 出典未詳。

12 原文は『書林藻鑑』巻八に見える。但し原文は『述書賦』からの引用であり、世界書 局1974年三版、楊家駱編『芸術叢編』第一集第五冊『近人書学論著(上)』所收『書林藻鑑』では「假他人之姓、作自己之形状」に作り、上海書画出版社1986年発行『法書要録』巻六所收の『述書賦』も同じである。なお李懐琳は太宗時代の洛陽の人である。

13 テキストと訳文は、前注8と同様の書籍を使用した。

14 劉九庵氏の原文では意味が通じにくいので、テキストとして黄賓虹・ケ実編、藝文印 書館印行『美術叢書』二集第六輯を使用した。なお原文は、「潤筆三星想未苛、捉刀期定不蹉跎。当時好友猶如此、莫怪流伝贋本多。」という七言絶句の注釈に当たる。

15 中華書局1981年発行『啓功叢稿』収録の「董其昌書画代筆人考」は趙左、沈士充などの代筆者を考証する。

16  魏の曹操の衣服は水を吐き出し、呉の地方の衣帯は風になびく、の意か。三国の魏と呉の衣服の画き方を言ったことばと思われる。

17 原文は『東坡題跋』巻五「書呉道子画後」に見える。テキストは廣文書局1971年印行の宋廿名家題跋彙編『東坡題跋』を参照した。また訳文は、中山文華堂1965年発行、中村茂夫著『中國畫論の展開 晋唐宋元編』所収「北宋期の士夫畫思想――蘇軾、黄庭堅、米芾について――」を参照した。

18 1999年に清華大学に統合され、現在は清華大学美術学院となっている。

中国古代書画目録備注一覧表

 

 

【凡例】

本表は『中國古代書畫圖目』附録「中国古代書画目録」に掲載する各作品について、鑑定組の意見が一致しない作品の一覧表である。中国書画の原作、贋作について、系統的に整理し、実態として把握するため、その具体的な方法として、中国北京の文物出版社から発行された、中国古代書画鑑定小組編『中国古代書画図目』(全24冊)1986年〜2001年各冊巻末に掲載される「附:中国古代書画目録」から、中国古代書画鑑定小組の鑑定家が鑑定に際し疑念を抱いた(贋作などの可能性が高いもの)作品に付される、▲印および○数字などを精査して作成したものである。なお備注の△印は、『中國古代書畫圖目』に作品が掲載されることを示し、注記は原文(中国語)のまま転記する。

中国古代書画鑑定組は次の7名の組織である。上海博物館顧問・謝稚柳(謝)、北京師範大学教授・啓功(啓)、故宮博物院研究員・徐邦達(徐)、遼寧省博物館名誉館長・楊仁ト(楊)、故宮博物院古代書画鑑定家・劉九庵(劉)、中国建築技術発展中心建築歴史研究所高級建築師・傅熹年(傅)、文化部文物局顧問・謝辰生。なお、カッコ内は注記に見える姓の略称である。

❸表中の「冊」は第何冊目かの数字を表す。全24冊中、第9冊、第10冊、第23冊、第24冊には備注の○数字が付されていないため割愛した。「頁」は各冊におけるページ数である。「番号」冒頭の一字は所蔵機関の略称であり、それは次の通りである。

京1 :故宮博物院………………………………第1冊、第19冊〜第22冊

京2 :中国歴史博物館…………………………第1冊

京3 :中国美術館………………………………第1冊

京5 :首都博物館………………………………第1冊

滬1 :上海博物館………………………………第2冊〜第5冊

滬2 :上海画院…………………………………第12冊

滬5 :上海人民美術出版社……………………第12冊

滬6 :上海友誼商店古玩分店…………………第12冊

滬7 :朶雲軒……………………………………第12冊

滬8 :上海工芸品出口公司……………………第12冊

滬9 :上海古籍書店……………………………第12冊

滬11:上海文物商店……………………………第12冊

蘇1 :蘇州博物館………………………………第6冊

蘇2 :蘇州霊巖山寺……………………………第6冊

蘇3 :蘇州市文物商店…………………………第6冊

蘇4 :常熟市文物管理委員会…………………第6冊

蘇5 :呉江県博物館……………………………第6冊

蘇6 :無錫市博物館……………………………第6冊

蘇8 :南通博物苑………………………………第6冊

蘇10:揚州市博物館……………………………第6冊

蘇11:揚州市文物商店…………………………第6冊

蘇13:鎮江市博物館……………………………第6冊

蘇14:鎮江市文物商店…………………………第6冊

蘇15:常州市博物館……………………………第6冊

蘇19:江蘇省美術館……………………………第6冊

蘇24:南京博物院………………………………第7冊

津6 :天津市文物公司…………………………第8冊

浙1 :浙江省博物館……………………………第11

浙3 :浙江美術学院……………………………第11冊

浙5 :浙江省杭州市文物考古所………………第11冊

浙14:浙江省湖州市博物館……………………第11冊

浙22:浙江省東陽市文物管理弁公室…………第11冊

皖1 :安徽省博物館……………………………第12冊

粤1 :広東省博物館……………………………第13冊

粤2 :広州市美術館……………………………第14冊

桂1 :広西壮族自治区博物館…………………第14冊

遼1 :遼寧省博物館……………………………第15冊

遼2 :瀋陽故宮博物院…………………………第15冊

遼5 :遼寧省旅順博物館………………………第16冊

吉1 :吉林省博物館……………………………第16冊

魯1 :山東省博物館……………………………第16冊

魯2 :山東省済南市博物館……………………第16冊

魯5 :山東省青島市博物館……………………第16冊

川1 :四川省博物館……………………………第17冊

渝1 :重慶市博物館……………………………第17冊

滇1 :雲南省博物館……………………………第18冊

卾1 :湖北省博物館……………………………第18冊

卾3 :湖北省武漢市文物商店…………………第18冊

湘1 :湖南省博物館……………………………第18冊

贛2 :江西省八大山人紀念館…………………第18冊

甘8 :甘粛省敦煌市博物館……………………第18冊